小野 政直

Add: yhibuc68 - Date: 2020-11-18 00:09:56 - Views: 4247 - Clicks: 6891

対する「小野政次」は、井伊家の家老。 井伊家の家老にして、今川家の目付(監視役)であった「小野政直」の息子。 「女城主直虎」では、2人は井伊直虎とともに「幼馴染」として育った仲良し、という設定になっております。 その後、井伊直平や中野直由ら井伊一門の重鎮が相次いで死亡し、次郎法師こと井伊直虎が還俗して井伊家当主となる。政次は引き続き家老職を務めるが、今川家からの徳政令の発令をめぐって直虎と対立する。直虎は新興有力商人の瀬戸方久を味方に付けて今川家の要求をはねつけたのに対して、政次は今川家に従うべきを主張し、地元の神主・祝田禰宜と共に徳政令を受け入れるよう直虎に迫った。両者は一歩も譲らず、直虎は二年間にわたって粘って今川の徳政令発布を拒否し続けたのである。業を煮やした氏真は、遂に政次を新たな井伊谷城主に任命し、直虎や直親の遺児・虎松(後の井伊直政)は、後見人・南渓瑞聞のいる井伊家の菩提寺・龍潭寺へ身を寄せた。 こうして遂に井伊家を乗っ取った政次だが、元々家中で孤立していた彼は領民からの人望も薄かった。直虎が徳川家康に助けを求めると、家康は井伊谷三人衆と呼ばれる今川から徳川に下った三人の武将を派遣して井伊谷城を攻略。一年も経たずに政次は城主の座を追われて逃亡するも、程なくして捕らえられ、幼い二人の息子と共に磔刑に処せられた。 なお小野家自体は、弟・玄蕃の遺児である小野朝之が祖父や伯父と異なり井伊家に忠義を尽くしたため、取りつぶされること無く、その後も代々井伊家に仕えた。. . 没 年:1554年. 当時の井伊家は今川家に敗れ臣従していたが、家中には今川に恨みを持ち続ける者も多かった。そんな中で政次の父・小野政直(通称和泉守。別名小野道高)は親今川派であったため、井伊一門や井伊家臣と対立することが多かった。また小野家は井伊家筆頭家老でありながら、今川から井伊家の監視も兼ねる目付に任じられていたため、家中では今川の回し者と敵視されていた。 1541年、井伊家における反今川派の急先鋒だった井伊直満(井伊直政の祖父)が、弟の直義ともども今川義元に粛清される。この直満謀殺の黒幕が、政直だったと言われている。「井伊家伝記」によると、政直が義元に対して「直満に謀叛の疑いあり」と讒言して、呼び出された直満は処刑された、もしくは自害に追い込まれたとされる。 元々政直と直満は井伊家の方針を巡って犬猿の仲だったが、井伊家当主・井伊直盛の娘(後の次郎法師=井伊直虎、本項では以下直虎と表記する)の縁談を巡って一触即発の状態だった。そもそもの発端は、直盛には男子がおらず、子は娘の直虎ただ一人であった。そのため、政直も直満もそれぞれ自分の子である政次・井伊直親を直虎の婿にして、自分がその舅として井伊家の実権を握ろうとしていたため、より一層対立を深めたのである。 殺された直満の子・直親はまだ幼く、わずかな家臣に守れながら井伊家を出奔、武田家の元へ身を寄せた。が、残った政次と直虎の婚姻に反対の声も強く、直虎自身出家してしまい、縁談そのものがうやむやになってしまった。.

小野和泉守 政直(おの いずみのかみ まさなお)とは. まずはおさらいとして、ざっと小野家の出自を見てみます。 ドラマでは、「流れ者だった小野政次の祖父・小野兵庫助を、井伊直平が拾ったのが小野家の始まり」という設定になっておりました。 井伊直平は、前田吟さんが演じていた直虎の曾祖父ですね。 詳細は後述しますが、小野家は“小野篁”の子孫ではなく、井伊家の庶子家だとする説もあります。 まずは下の地図をご確認ください。 井伊氏の本拠地にして本貫地(=苗字の地)である井伊谷。 その南西スグそばに「小野」という地があるのが見えますか? 浜名湖から見て北東の位置、井伊谷は静岡県浜松市北区引佐町にあります。 その南西にある「小野」という土地を与えられた井伊家庶子家(分家)が「小野姓」を名乗ったという説があるのです。 『相国寺供養記』に登場する「英比信濃守小野氏信」の「英比」が「いひ」であり、「いい(井伊)」であることが、この説の1つの根拠となっています。 これまでの通説では、「小野家系図」にあるように小野家は、平安時代の天才貴族・小野篁の後裔とされているんですけどね。 その通説によりますと、小野氏の本貫地は、井伊領南東端の「小野」(静岡県浜松市浜北区尾野)で「小野篁の長男・小野俊生が開拓した土地」と伝わっており、後に、小野兵庫助が井伊谷南西の小野に移り住んだとしています。 小野篁から数えて兵庫助は25代にあたり、その孫の政次は27代目になりますね。 小野 政直 ※蛇足ですが、吹越満さんが演じていた父の小野政直が26代目です。 話が少しそれますが、尾野にある高根神社の名は、小野篁に由来します。地名や家名、それに神社や寺の名は、諸事情が複雑に絡み合って変わっていくことが多々あります。 高根神社の場合は、始まりが「たかむら(篁)神社」で、それが「たがむら(多賀村)神社」→「多賀神社」→「たかね(高根)神社」と変わったとされます。 なお、江戸時代になると「小野が2ヶ所あるのは混乱を招く」として、近藤氏が、井伊谷の南西にある「小野」を「井小野」、井伊谷領の南東端にある浜北区の「小野」を「尾野」としました。 このとき尾野の小野氏は「領主(近藤氏)よりも名家であるから」という理由で、姓を強制的に「鈴木」と変えさせられ、先祖伝来の宝物も近藤氏に取り上げられます。 では、出自はこの辺にしておき、本題へ入りたいと思います。 史実の小野政次は如何なる最期を迎えたのか?. 井伊直盛には男子がいなかったため、その跡継ぎに、 井伊直満 の子である井伊 亀之丞. ・五男・正親(高畑小野氏の祖)─正勝. 小野政直が亡くなったことにより、亀之丞は井伊谷に帰国することになります。 その時、亀之丞には信濃で娶った妻子がありました。 そのため、許嫁の次郎法師とは結婚せず、22代直盛の養子となり直親と名を改めます。. 直盛の祖父である井伊直平は、今川氏に負けたことを悔やみ、憎んでいたかもしれない。 しかし、孫の直盛と言えば、後見人となる烏帽子親が今川義元であり、妻も新野氏(今川庶子家)の娘である。今川とは、立地だけじゃなく血縁的にも縁が深く、義元の重臣として申し分のない立場。 着実に勢力を伸ばす義元は駿河・遠江だけでなく三河もほぼまとめあげ、「海道一の弓取り」(東海道で最も優れた武将)と称されるようになった。 これにつれ戦いの舞台も、三遠国境から、三尾(三河と尾張)国境へと移っていく。 井伊家にとっては、大きな変化であった。 というのも、三河国が今川氏のものになれば、井伊領の地理的位置は「西端」から「中央」になり、戦場になる確率は極端に低くなる。 そこで問題となってくるのが、このときの小野政直の行動だ。 彼には、「井伊直満(三浦春馬さん演じる井伊直親の父)と直義の兄弟が武田氏に内通し、今川に反旗を翻そうとしていると義元に讒言した」という記録が残されている。 果たしてこれは真実なのだろうか。 武田信玄は今川義元と同盟を結んでおり、井伊領(今川領)へ侵攻するとか、井伊氏と組んで今川義元を倒そうなんて考えるハズがない。 そんな状況で義元に讒言したところで、それを信じるだろうか。そもそも信玄が駿河へ侵攻したのは後に氏真の代になってからであり、当時の甲斐は信濃侵攻で手一杯であっただろう。.

そもそも大河ドラマで脚光を浴びるまで、知名度がゼロに近いマイナー武将だった ・・・といった点が挙げられる。また史実の経歴から、登場しても義理が低いなど扱いの難しい武将になることが予想される。. (与板藩家老家) ・三男・太兵衛. 政直(道高)の先祖の初代:小野妹子~(中略)~小野和泉守 政直は(道高)を取り上げる。ナレーターの中村梅雀に「悪役: 小野和泉守政直(道高)として解説している。史実がそうなの か。「個人的にはやや違和感のあるナレーターである。. 名 前:小野 政直(まさなお)、道高 (みちたか) 通称・官名:和泉守(いずみのかみ).

小野 政直注釈 2(おの まさなお)は、戦国時代の武将。遠江国引佐郡井伊谷の国人・井伊家の家老。. 小野政次の家は、父子共に処刑されて絶家しました。 が、小野政直には6人の息子がおり、その行く末は以下の通りです。 ・長男:但馬守政次→絶家 ・次男:玄蕃朝直→与板小野家(与板藩家老家) ・三男:太兵衛 ・四男:正賢→備中小野家 ・五男:正親→高畑小野家 ・六男:利左衛門兵蔵→井伊谷小野家(金指近藤家家臣) 次男・小野玄蕃朝直は、「桶狭間の戦い」で討死しておりました。 その子・小野亥之助(後の朝之)は虎松と共に徳川家康に出仕し、子孫は与板井伊家の家老を務めます。 それにしても、政次パパの小野政直は精力絶倫です。 五男・正親と六男・兵蔵の母親は側室で、政次パパが病死した時に妊娠中。正親と兵蔵は、2人共、政次パパが亡くなってから生まれています。つまり、死亡時(ドラマでは白髪頭でしたが)、側室は、少なくとも2人いたと考えられています。 病気になって死を予感し、「死ぬ前に1人でも多くの子孫を残そう」という執念が凄まじい。 しかし、その肉食系DNAを受け継いだはずの小野政次は、ドラマでは草食系で淡白。 妻や2人の息子も登場しません。 兄弟が子孫を残せば自らは直虎と井伊家に命を捧げても悔いはない――。 ドラマ的には、そんな思いだったのでしょうか。 あらためて哀悼の意を表します。合掌。 著者:戦国未来 戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。 モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。 自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。 公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」 小野政直/吹越満 小野政直(おのまさなお)は井伊家筆頭の家老で優秀さを買われて井伊家に仕えることになったが、今川寄りの政策ばかりを取るため井伊家から反発され、家老の中では浮いている存在である。. . 本作では、前半の準主役扱の人物となっている(演:高橋一生)。 史実では直虎や直親と敵対関係にあった政次だが、ドラマでは彼らの幼馴染となっており、共に南渓の元で学問を学ぶ無二の友であった(なお、本作の政次は鶴丸という幼名で、劇中でも通称として直虎や直親に鶴と呼ばれているが、これはドラマの創作である)。若い頃は家中で権勢を振るう父・政直を嫌っていたが、政直から「いつか同じ道を辿る」と呪いに近い予言を受ける。 果たして、政直が病没して家督を継ぐと、直親からは信頼できる友人故に井伊家の面倒事を押しつけられたり、貧乏くじを引くことが多く、いくら井伊家のために尽くしても、小野家を嫌う先代当主・直平や井伊家重臣たちからは相変わらず敵視されるなど不遇の日々が続き、桶狭間では心許せる弟・玄蕃も失うなど、徐々に闇堕ちフラグが立っていく。 小野 政直 ついには寿桂尼の罠にはめられ、今川家への忠節を選ぶか、直虎・直親との友情を取るかを迫られ、心ならずも直親殺害に加担。以後、新たに城主となった直虎と対峙する立場となる。・・・が、政次は実はダークサイドに堕ちてはいなかった。表向きには親今川派の、井伊を乗っ取ろうとたくらむ策謀家であるかのように振る舞いつつ、実際には井伊家と直虎を守ることを第一に行動し続けていた。やがて真意を知った直虎とは裏で協力体制を敷く。 今川氏真からの徳政令実施要求を受けると、いったん直虎を追放、彼が井伊谷の領主となった上で、徳川家康の助力で直虎が井伊谷を奪回するというシナリオを描く。だが井伊谷三人衆の一人・近藤康用の罠により計画は破綻。直虎の潔白を証明するため、最期まで「奸臣」を演じて悲劇的な死を遂げた。 ちなみに本作では自分の置かれた立場を考え、婚姻話を頑なに断って生涯独身を通していた。(史実では結婚しており子供も処刑されている). 信長の野望シリーズには現在未登場であるが、年11月発売の新作「大志」での登場が公式にて既に予告されている。 過去のシリーズで登場できなかった理由としては 1.

目次 閉じる 1 小野政次. 小野政次は井伊家筆頭家老・小野政直の嫡男です。直虎(ドラマではおとわ)や亀之丞の幼馴染です。最初は、井伊家で他の家臣と対立する父・正次を見て葛藤しますが。父なきあと井伊家筆頭家老の地位についたあとは直虎と対立することになります。 小野家は井伊家の筆頭家臣。でも今川家. More 小野 政直 videos. 小野政直の行動は讒言ではなかった――。と、これはあくまで私の想像だが、その立場からあらためて彼の行動を確認してみたい。 ①井伊家は武田派と今川派に分かれそうになった ②小野政直は目付家老として主君の今川へ報告 ②単なる「讒言」ではない ③筆頭家老として内部紛争を第三者に委ね、井伊家に遺恨を残さない かように、もしかしたら井伊家をまとめるために起こした行動かもしれないのである。 おとわの婚約についても、「自分の息子と結婚させて、井伊領を横領しようとしていた」と推測されているが、単に「今川との関係を深くするため」という見方であれば、あながち己の権力欲のためとはならない。 実際、井伊直平の娘は今川義元の人質(側室とも・後に義妹として関口氏に下げ渡されて築山殿を生んだ)となっているし、井伊直盛の烏帽子親は今川義元であり、今川庶子家の新野氏の娘を正室としておとわ(井伊直虎)をもうけている。直虎自身も今川とはつながりの深い存在である。 こうした今川氏との縁を活用して、直虎を絶対王者・今川氏真の側室に出すとか、今川庶子家から婿を迎えることもできるし、それが当時としてはごく自然な流れであったようにも思えてくる。 そうならなかったのは、今川氏と戦って敗れたゴッドファーザー・井伊直平や、直満・直義兄弟の中に「反今川」の気持ちが燻っていたからであろう。 それもやむを得ないことだが、こと「家を守る」という観点からの行動とすれば政直ばかりを攻めるのも少し酷だ。. 小野玄蕃は桶狭間の戦いで戦死しますが、その兄にあたる小野政次は井伊家、そして直虎を苦しめ続けた武将として知られています。 ※参照: 小野政直(小野道高)ってどんな人?子供や井伊家との関係は?.

ドラマで小野政直役を演じるのは、いぶし銀の俳優・吹越満(ふきこし みつる)さん。高橋一生さん演じる・小野政次の父親役だ。 後にこの小野政次は、直虎から井伊家の所領を奪い取りながら、徳川家康の遠江侵攻で敢えなく討たれる運命という重要な役どころだが、そもそも井伊家の簒奪を企てていたのは父の小野政直からというのが定説。 一言で表すなら“悪役親子”というワケだが、しかしそこには単純な下克上とは思えない背景がある。 小野政直は、井伊家の人間を陥れるべく今川家に讒言したという記録が残されている。これが、少しながら腑に落ちないところもあり、まずは当時の周辺の状況から振り返ってみたい。 井伊家の本拠地・井伊谷は、遠江国の西端にある。 居城は井伊城(三岳城)。同国の守護は、かつて斯波氏であったが、今川氏に取って代わられると、不服に思った斯波氏は、引馬城主の大河内氏と井伊城主の井伊直平を誘って連合軍を編成、今川氏へ戦いを挑んだ。 結果は惨敗。 井伊城は今川家臣・朝比奈泰以によって落とされ、奥山貞昌が城番となって入城し、宗主の井伊直平は長きに渡って監視下に置かれることになる。 しかし20年後、今川家の宗主が義元に替わると、軍師・太原崇孚の提言によって井伊家の取扱に変化が現れた。 太原らは、井伊一族を今川の家臣として迎え、西隣の三河国侵攻の先鋒として使い始めたのだ。 拡大する戦火の中で、幾度も戦闘に駆り出された井伊家の人間は当然ながら犠牲になる者が多く、直平に替わって宗主となっていた直宗(直平の長男)も三河田原城の戦いで討死し、次の宗主には直盛(直虎の父)となった。※直盛も後に桶狭間の戦いに駆り出されて死す. 「君の笑顔が見たいから、僕は悪を演じきる」 大河ドラマ「おんな城主直虎」で高橋一生さんが演じるのは、井伊家の家老・小野道好(「小野家系図」では小野政次)です。 高橋さんの何がいいかって、茶色の目です。 昼は瞳孔が閉まって相手の警戒心を削ぎ、夜は開いた瞳孔が黒く闇に光る虎の目。 小野 政直 あの目を見ていると「小野家が井伊家の庶子家(分家)だという説」、ひいては「井伊家が虎の目を持つ一族」だという説――も信じたくなってきます。 政次の生涯については、既に以下の記事にまとめておりますので、今回は、「処刑された」と伝わる哀しき彼の死について掘り下げてみましょう。. 1554年、政直が没すると、政次は家督を継ぎ目付の地位もそのまま引き継がれた。同時に、直満謀殺の元凶である政直が亡くなったことで、井伊直親が井伊家に復帰、次期当主となった。直親にとって政次は、父の仇の子であるため、両者は主従関係にありながらその仲は険悪だったと考えられる。 1560年、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れ討ち死にしたが、井伊家でも当主・直盛や政次の弟・小野朝直(玄蕃)ら大量の犠牲者が出た。こうした混乱の中で直親が当主となるが、政次は直親の舅として井伊家で大きな発言力を手にした奥山朝利を暗殺。 そして1563年には、直親が松平元康(徳川家康)との接近を図ったことを、主君・今川氏真に密告。これに激怒した氏真は、直親を呼び出して殺害した。奇しくも直満・直親父子は、井伊家筆頭家老の小野政直・政次父子によってそれぞれ命を奪われたのである。.

人物の評価は、時代の推移や研究の進展によって変わる。. ・六男・茂兵衛(井伊谷小野氏の祖). そして、代官に任ぜられたのが小野政次で、井伊家が持っていたこの地の支配権を横領することに成功します。 しかし、武田軍に呼応して遠江に侵攻してきた徳川家康の軍勢が、近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時ら「井伊谷三人衆」を味方に付けて井伊谷を攻撃。 政次は逃亡し、小野による短い井伊谷支配に終止符が打たれます。 程なくして逃亡した政次は捕らえられますが、これには諸説あり、菅沼忠久の兵に見つかって捕らえられたとするもの、近藤康用が洞窟に潜伏していたところを捕らえたとするもの、などが伝えられています。 1569年(永禄12年)捕らえられていた政次は処刑。 その子らもその一月後に処刑されたと伝えられています。 これらについては、主に江戸時代後期に書かれたとされる史料に基づいているため、その正確さに関しては今も議論が続いていますが、政次に関しては全体的に「奸臣」との印象づけが強くなされています。 野心を持って井伊家を乗取った政次ですが、明智光秀のようにその天下が1ヶ月程度のもので、その結果処刑されたなると、何とも哀れな最期です。. ではなぜ、このような話がまことしやかに伝えられてきたのか。 考えられるのは江戸時代の「徳川中心史観」である。 権力者によって歴史が改ざんされるのは常。また、その配下の者たちが、自身の家や徳川に有利な記述をすることもよくあること。 「神(東照権現)である徳川家康が間違いを犯すはずがない」 そんな考えに沿っている気がしてならない。 確かに井伊氏は、小野政次と今川氏真によって直虎が地頭職から解かれ、その後、実質的に一度は滅びている。 後に赤鬼として恐れられる井伊直政が徳川家康に召し抱えられたからこそ今も歴史に名を刻んでいるのであり、そうでなかったら表舞台に出てくることもなかったであろう。 当然ながら井伊氏は、家康のことを微塵たりとも批判めいたことは書けない。よって、小野政直・政次親子が井伊領を横領した大悪人とし、これを処刑した家康の判断が正しかった――とするのが同家にとっても都合の良い解釈である。 現在の日本史学会のブームは「◯◯中心史観からの脱却」である。 その流れにあやかって考えてみると、この「小野政直の讒言」も違う見方ができる。 「井伊家内が、武田派(井伊直満・直義兄弟)と今川派に分裂し、目付家老の小野政直が主君の今川に報告したため、武田派のリーダーである兄弟が処分された」のではなかろうか。 複数の有力大名に囲まれている国人衆であれば、この手の出来事はそれこそ日常茶飯事である。. 政龍. 小野政直(おの・まさなお) 【不詳~1554年】戦国時代の武将。遠江国引佐郡井伊谷の国人。井伊家の筆頭家老。名前は道高とも。通称は和泉守(いずみのかみ)。今川氏との関係を重視する政策をとり、やがて井伊家の内偵役として今川氏から重要された. 大河ドラマの後半、直虎を含めた井伊谷の人々が大きな動きに巻き込まれ、それぞれが新たなステージに入っていくことになりますが、そのターニングポイントとして、「政次の死」は印象的なものとなっています。 まずは、弟・玄蕃の妻だった「なつ」との交わり。 近藤の裏切り行為が発覚する前。 今川の支配という長年の軛から脱することができ、自分の役目が成就したと思った時に政次が心を開いたのがなつでした。 最後を迎える前、政次はなつへプロポーズ。 職務に対して常に寡黙だった政次らしいといえばそれまでですが、これが逆に世間でいうところの「死亡フラグ」となってしまいます。 ただ、このエピソードがあることで隠れ里でのシーンが生き、自らの死をもって井伊を救おうとする政次の心情が痛い程伝わってきます。 この時点で武家の女であるなつも当然ながら政次の決意を理解していたハズ。 お互い、それを口に出すことなく、残り少ないわずかな時間を共有しようとするシーンは非情に美しく描かれています。 近藤の計略にはめられた直虎を救うために自ら捕縛された政次は、龍雲丸が助けに来ても、自分が犠牲になり、井伊家の捨て石になることを選びます。 そして、磔(はりつけ)となり最期を迎える間際。 自ら行ってきたことを後悔するのではなく、すがすがしさすら感じて処刑の場に赴こうとする政次。 自分を売った近藤を恨むのではなく、むしろ哀れに思うのですが、この点は後に直虎が戦国の理に無常観を感じることに通じます。 政次の死により、直虎をはじめ井伊谷の人々は悲しみと絶望に近いものにさいなまれるが、それを乗り越え新たなステージに進むという点からも、ターニングポイントとして大きな意味を持つエピソードです。.

「おんな城主 直虎」では、憎まれ役に徹しながらも井伊家筆頭家老として最期まで直虎を支えた小野政次。 これは大河ドラマの中での解釈ですが、史実では180度変わった人物として後世に伝わっています。 小野政次は井伊家の筆頭家老であった小野和泉守政直の嫡男として誕生。 生誕した年などは伝えられていません。 1554年(天文23年)に政直が死去すると、家督を相続して父と同じく筆頭家老となります。 井伊直満を謀殺したとされる父と同じく、謀略をもって井伊家を抑えようとする傾向が強く、1562年(永禄5年)井伊直親が徳川と内通して今川への謀反を企てていると今川氏真に訴え、結果的にその家臣である朝比奈泰朝に討たせることに成功します。 その後、武田軍の今川領侵攻と前後して、今川氏真より直親の子である虎松の殺害を命じられて挙兵。 井伊谷に攻め上がっています。 政次の軍勢は井伊谷を制圧しますが、危険を察知していた虎松は事前に逃亡。 今川氏は井伊家当主である直虎が持っていた地頭の地位を剥奪し、井伊谷を今川直轄領とします。. 小野政直 ( 小野道高) 小野 政直 小野政直 (おの-まさなお) (小野道高、小野和泉守道高、小野和泉守政直)は井伊家で家老を務める重臣でしたが、当主・ 井伊直宗 が1542年8月に、三河・田原城の戦いで野伏に襲撃されて討死したあと、井伊家惣領となった 井伊直盛 に対して反抗します。. 亀之丞(井伊直親)は隠れ住んでいた10. 政直の子政次もまた井伊氏の家老でありながら、主君を讒言して死なせているわけですが、これには複雑な事情があるように思われます。 小野氏の立場. いざ斬首されてしまった小野政次は罪人ですから、寺に墓をたてられません。 おそらくや処刑地の河原には、自然石や石仏などが目印として置かれたことでしょう。 しかし、ひょんな事から後世になって小野政次の墓が整備されます。 「中井氏が小野政次の怨霊に祟られた」のがキッカケだったというのです。 中井氏がなぜ小野政次に祟られたのかは不明。 しかし同氏がわざわざ整備した説としては、二つあります。 説①:説①:中井氏が小野政次を見つけて徳川家康に差し出した。 説②:中井家は小野政次の妻の実家であり、なんとかして小野政次の墓をたてようとして、考えついた嘘。 元和4年(1618)3月16日、中井浄林は、蟹淵の西岸に小野親子供養の「経塚」を築きました。 咲いた椿の花の色が真紅であったので「椿叟(ちんそう)塚」と呼ばれたそうです。 その後、中井氏は、代替わりの度に供養塔を建てたそうです。 この小野政次と2人の息子の墓と供養塔群は、河川工事により、現在は、信州街道を挟んで井伊谷川とは反対側の路傍にまとめられています。 ※向かって左端の3基の立石と3個の岩がお墓で、他は歴代中井氏がたてた供養塔や石仏になります。. 小野政直; 時代: 戦国時代: 小野 政直 生誕: 不明: 死没: 天文23年 8月27日(1554年 10月3日) 別名: 道高 、和泉守(通称) 戒名: 清仲源泉居士: 主君: 井伊直盛(直満) 氏族: 称・小野氏: 父母: 父:小野重正: 子: 道好、朝直、正賢、正親、ほか諸説あり: テンプレートを表示.

おんな城主直虎の中で小野政次の存在はとても大きく、高橋一生さんなしでは成り立たなかった役ではないかと思います。 流行りの言葉を使うと、かなりの人が「政次ロス」になってしまったんじゃないでしょうか? これから小野政次の名前が出る時は、多くの人が高橋一生さんの政次をイメージすると思います。 史実とはかなり異なった設定ではありますが、エンターテイメントとして割り切るならコレはコレであり・・・・なのかもしれませんね・・・?. 小野路城 (おのじじょう)は、東 小野 政直 京都 町田市小野路町にある平山城です。 鎌倉 時代の趣が今でも感じられる、小野路城を訪れてみました。 わかりにくいところですので、先に小野路城の場所を地図でご案内させて頂きます。 地図は縮尺を変えてご覧願い.

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